里山資本主義という概念は素晴らしいと思う【ふらっと考える】

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里山資本主義を考える

里山資本主義という概念が素晴らしいものであると考える。しかし、これはあくまでも一個人としての考えであり、現実的かどうかや、これが経済再生に繋がるかどうかは考慮していない。つまり、私はこの思想が一番素晴らしいと思う、などの考えと同じで、価値観の階層にすぎないということである。田舎に暮らし、物々交換に魅力を覚え、支出に追い回される生活から脱出し幸せに生きていく。まるで隠居した坊主が、いまにも言い出しそうなフレーズである。里山資本主義にはかつてのマルクス主義と同じような、理想主義的な片鱗を感じてしまう。勘違いしてもらいたくないので改めて言うが、私はこの里山資本主義という概念を非常に評価している。さらに言えば、この概念を自分の軸にして生活してみたいという憧れすら感じている。しかし、この感情は、自分の欲望や価値観をすべて捨て去り、神のためだけに生きる宗教家達に抱くものと同等である。

簡潔にまとめてしまえば、里山資本主義は理想主義的である。なぜなら、情報の拡散をプラスの面でしか捉えていないからである。ITの発達によって今では岡山の山奥に住んでいても原宿の流行を知ることが出来る。田舎の魅力を発信できるのと同等、いやそれ以上の魅力を都心から発信されていることを忘れてはならない。里山に住み無駄な出費を控えたつもりでも、手元の携帯には常に新しい魅力的な情報が溢れ出てくる。その情報を完全に遮断しないかぎり、結局は都心の魅力、贅沢をしたいという欲望に負けてしまうことはやむを得ない。しかし、もしそれらの情報を遮断してしまえば、逆に自分達の魅力は発信できず、ガラパゴス化した社会になってしまうのではないか。どちらを選択しても結果は変わらないように思える。かつて東京に一極集中したのは田舎の里山に嫌気がさし、新しく成り上がろうとする若者が溢れんばかりいたからである。高所得者になる、有名になるという人間の根本にある欲望を否定することは、この主義の現実味を甚だしく失わせてしまう。つまり、この本の軸である里山資本主義とは、思想というよりも宗教に近いのではないか。まるで、大都会のアパートに住む青年宅のドアを叩き、神を信じますか、と勧誘を繰り返す信者から渡された1冊のバイブルであるかのように感じられる。
 事例の中で、1つがっかりしたことがある。それは真庭市の建材メーカーの話である。木質ペレットは完全に真庭市で生産されているらしい。しかし、中国新聞によるとその資源は北欧産であると書かれていた。これは、おかしい。なぜなら、里山とは地元の資源を自給自足している経済であるはずである。里山資本主義の中核である資源が、結局北欧からの輸入でしたでは、ごめんなさいでは済むはずがない。事例が気になりGoogle検索をかけて後悔した瞬間である。理想主義的どころか里山資本主義はただのハリボテだったのかもしれない。

ここまで多くの悪口を書いてきたが、それでもやはり里山資本主義に惹かれてしまう自分がいるのも事実である。莫大な量のゴミが毎日のように出る日本を、普通に感じてしまう社会は正しいはずがない。生きるためのエネルギーのほとんどを海外からの輸入に頼る現状は正しいはずがない。筆者の思想には共感しうるところが多くある。しかし、情報の伝達問題や人間の欲望を無視している以上は現実性のあるものではないと思う。

僕がこれを書いたのは2015年だった。
今現在、イケダハヤトのような生活を選ぶ人間もいるようだが、
まだほとんどの人にとって現実的ではないようだ。


皆さんはどう考える?
ふらっと考えてみてくださいな。

ふらっと考えるのに使った本

・「里山資本主義/藻谷 浩介」

じゃあね〜〜〜。